2015年7月8日
巴林左旗の朝食はヤク(羊乳)茶と日本蕎麦(ソバ)、内蒙古は蕎麦
の生産地で大半が日本に輸出されているようです。
茄子やネギに羊肉を混ぜた下地を蕎麦にかけて食べます。
蕎麦は腰が強くて美味しいが羊肉独特の匂いが!私はイマイチ。
出立前に契丹の遺跡を尋ねる。
巴林左旗(遼上京)は道路も家紋も全て契丹で統一されているよう
です。
道路の両脇に家紋が刻まれた門。
契丹像を背に
契丹は北方の騎馬民族による最初の統一王朝で建国は耶律阿保機(ヤ
リツアボキ)は部族ごとの騎馬民族の規律を定め騎馬民族国家を築い
た。契丹人は4世紀ごろから内蒙古、東部を流れるシラムレン川流域
で狩りや遊牧をして暮らしていた。
907年中国は唐が崩壊した直後の戦乱の時代に耶律阿保機はこの地の
8部族の王となり最初に築いた都、巴林(バイリン)左旗は上京と云
う名で呼ばれていた
幼少の契丹(巴林左旗(博物館)保存
契丹所有短剣(巴林左旗)遼上京
契丹には、春夏秋冬の猟場があり、夏は避暑をかねて、巴林(バイ
リン)右旗の慶州にキャンプ地かまえて後に白亜の塔を建立する。
遼上京契丹博物館
休館日を私たちの為に全ての館内(復元の研究室、技官や出土品は
1階~4階まで遺品や遺体、装飾品等)を自由(オープン)に見学さ
せて頂き初めて目にする数々遺品圧倒されました。
出土した1000年前の石棺、現在の原型がこの時代に作られていたとは
驚きです。
巴林左旗(博物館)保存
10世紀から12世紀前半にかけて広大な北アジアの草原地帯
(モンゴル草原)に栄えた「契丹」(遼王朝)。
契丹幼少の黄金像
来世も一緒にと、願う絵が聖地墓陵の遺体脇に画かれていた。
遊牧民を主体とする王朝でありながら、唐の文化を色濃く伝えるミス
テリアスな大草原の王朝です。
契丹は他にも東京、中京、南京、西京の4つの都を作り、季節、政治
情勢により政府が自由に動く騎馬民族ならでの社会を作り王宮は持ち
運びの出来るゲルを戦争中は馬車に乗せ機動性を高めて持ち得たよう
です。
発掘した当時の原型で修正は此れからのようです。(復元の技官の話)
耶律阿保機 率いる契丹は万里の長城を越え、漢民族が暮らす南の平
原へ侵入する西は中央アジア、東は朝鮮半島北部まで勢力を拡大し、
建国後わずか20年足らずで大帝国を樹立し、滅亡までの200年の間、
自身の文化を保持し宋を始め周辺諸国と交流が行なわれたようです。
遼上京遺跡的壁画
中国・内モンゴル自治区にあるトルキ山古墓から出土した皇族女性の鏡箱等の副葬品
や豪華な彩色木棺は圧巻の一言。(10世紀前半)
トルキ山古墓出土的皇族女性の遺体(頭部)頭髪
巴林左旗(上京城)的契丹出土品
契丹画(保存状態が良い)
壮大の資料の一部です。
後のチンギス・ハーン(元)が密かに世界制覇の手本にした国が「契丹」
元々契丹という国があった場所に生まれた1206年元(最繁栄期)は地球上
の1/4の陸地を支配していた。
遼上京の契丹遺品跡に感激、歴史はロマンですね。
巴林左旗を後にこれより巴林右旗にむかう
途中の料金所から幹線道路に。
自然的風景を眺めて
大板で途中下車
田舎鎮で昼食です。小豆のお粥にポーズ(饅頭)と漬物でお腹が空く
と何でも美味しい!
大板料金所
巴林右旗に入りました.
契丹第6代皇帝の妃・章聖皇太后が、夫の弔いのために建立
の塔が有名です。
契丹の狩猟場がこの巴林右旗で慶州白塔は次回の機会にお預けです。
北京は元々、契丹が築いた5つの都の一つ当時は南に位置する都、南京
と呼ばれていた
大都会の真ん中に残る契丹の仏塔:「天寧寺塔北京に残る最も古い建造
物」1120年建立の天寧寺塔は契丹(皇帝)最後の代時で外観はほぼ創建
当時のままです。
地元企業と商談も終えて今夜の宿泊地、正鑵白旗まで約380kmの工程
を走る。
克什克螣旗鑵で車を降りて小休憩。
草原に遊牧民の住居、ゲルが建ち並び一族で住み、風呂もない昔と代
わらない生活様式で暮らしているようです。
草原の先は砂漠化が進んでいる。
此処からは一般道で正鑵白旗まで草原を突っ走る
日が西に傾いた大草原を
単線の鉄道が平原を真っ直ぐに延びていた。
時刻は18時10分、日没はまだ先のようです。
このような道路を走り白旗へ向います。
冬になれば強風が砂と一緒に吹き荒れ凍て付く環境は暫し通行も止ま
るようです
栄養分の少ない草原に区割りされた土地に限度を越えた飼育数(2倍以上)
を放牧し、結果的に草が育たない、質より糧を重んじる歴史的民族は結果
を急ぐあまり生産料が上がらない。
果てしなく続く砂だらけの悪路を白旗へ
正鑵白旗(現地時間20:45)でゲルに見立てた席で晩の食事です。