2015年7月アーカイブ
2015年7月13日
彰武県に別れを告げ、長春を経由して夕方までハルピン帰る予定で
す。
中国の県は日本では村に値します。
何処を訪ねても近代的になり昔と大違いに風変わり致しました。
彰武の料金所を通過して長春方面の分基点を目指して。
道路わきに枕瓜(メロン)売りが並んで、お客さんを呼び寄せてい
ます。
目の前の高架橋に中国高速鉄道(新幹線)が走っています。
途中、車を止めて昼ご飯、
好物の湖南菜(料理)を注文、湖南省はどの料理も辛いのが特徴で
一度食べたら病み付きになります。
魚の頭部が一番美味い。
青い唐辛子と肉を炒めた料理です。
胡瓜とピーナツ
私だけが食前酒にビールを頂く
ようやく長春(旧新京)に来ました。
新開地の高層住宅です。
此処からハルピンまで約.230km少しに近づいて来ました。
道中はこのような平坦な風景が続く東北(旧満州)地方です。
7月5日に出発して長春を経由して内蒙古から石家庄、天津~秦皇島 ~長春を通り、約3540kmの行程走りようやくハルピンに帰ってき ました。 お疲れ様。
2015年7月12日
秦皇島市内で宿泊して午前中は歴史ある万里的長城(最東側)の
渤海から始まる山海関を始めに訪ね、最後は秦皇島城内(市内)
のコース等、ホテルのフロント係りに教えてもらう。
万里の長城は秦の始皇帝が匈奴(契丹)から護る為、建設が始まり
(明の時代)東の渤海湾から始まり西の嘉峪関(甘粛省)まで3000
km、その他に漢の時代は砂漠の先まで3500km(総延長)と言われ
ています。
市内から車で約4.5kmに海から始まる山海関に言ってみました。
城門
城内は執務所から牢獄まで全て現存しており、清朝最後は政権が崩
壊した為に保存状態も野放し状態だったようです。
山海関城内の案内平面図です。
この階段を上って最先端(海側)を一望できます。
海辺から写した景観です。 城門宮から見た最先端。 内陸の内蒙古高原と違い沿海地方は暑くて汗が滴る 泳ぎたい心境です。 皇帝が優雅に過ごした宮殿 白馬に乗って見ました。
性格の良い大人しい馬さんでした。
城壁(万里の長城)に多くの家族連れが訪れていました。
罪人の牢獄棟です。 牢獄の隣は馬屋です。 山海関を後のして秦皇島(市内)へ、中心地そのものが城内で城門 や庭園など見て回りました。
城内の案内平面図
秦皇城門です。栄華を誇った歴史的ご門。
守護神(四方の方角に)
万里の長城(城壁の上は広い)
夏休暇の日曜日と合って北京より多くの家族連れの観光客で賑って
いました。
これより車でもう一箇所先の山間的長城を見る為に秦皇島を出発です。 山道を登りやっと写した万里の長城です。
西の嘉峪関(甘粛省)万里的長城(参考までに)
今夜の商談先は遼寧省の瀋陽より北の彰武県です。
孟姜を通過 商談も済んで、お得意先(社長)様宅で奥様の心こもった手料理 (一般的田舎)で夕食を頂きました。 今日も疲れました。
2015年7月11日
昨夜ご馳走になった友人の会社(邢台市鶏澤県)を訪ねる。
畑の散水用ポンプを主に製造しており得意先は地方政府が一括購入
し販売店に引き渡すシステムを採用しているそうです。
中国で商売するには各、人民政府との信頼関係を築く事が基本で、
ない方は継続は難しいと思います。
工場内畑で水圧の検査している。
女性社員のモーターのコイル組み立て作業です。
共産党幹部の為、毛澤東が工場に飾られていた。
毛氏始祖の出身地の為か。
毛澤東のご先祖(始祖)様は此方の出身で秦の始皇帝の時代にさか
のぼり代々鶏澤県を領地としてきたようです。
廟
先祖は中国歴史でも有名な方で、後の毛澤東も幼少期は此方で過ご
し、子供時代に両親と湖南省の韶山に引越し、後に共産党を立ち上
げた。
記帳を済ませてご先祖様の廟にお参りをする。
鶏澤料金所から高速道を利用して次の天津市へ。
天津湾では潮干狩りに訪れた人々の姿が。
天津特別区で世界の自動車が展示と販売センターを見学して秦皇島
に向かう。
秦皇島は軍隊直属(軍警)の検問で厳しく検査をされる。
理由は中国政府高官(江沢民や胡錦濤等)の長老会議が此処、秦皇島
で開催される為、警護が通達されたようです。
軍警の検問です。
脇には自動小銃を構えた軍隊が目を光らせていました。
秦皇島のホテルを出て街で久し振りに海鮮料理を楽しみました。
今晩は此方で疲れを癒し明日は山海関を訪ねる予定です。
2015年7月9日
内蒙古から万里長城(モンゴル側)の山岳道を通り河北省に向かう
予定です。
此方は山間の乾燥した高原に位置する日本流の宿場町的雰囲気で回
りは狼が出没する寂しい街です。
夜は気温が下がる為、布団を掛けて眠る。
白旗ホテル(宿泊)
此処から幹線道路を通って河北省張北県の取引先に。
内モンゴルの境界を越えました。ようやく目的地に近くなると野菜畑が広がっている。
手前は荒地のようです。
張北県に来ました。
昔の城門が残っており蒙古との関所的検問の名残みたいです。
記念に
セールスも済み田舎料理で昼の食事です。
天然自生の青菜に卵と一緒に炒め物で味はまま、
3人で三品に水餃子の粗食です。
張家口市を経由して北京の先、任丘市まで約680kmを万里長城の裏側
を通って目的地へ。
長年の歳月に風雨で抉られた乾燥大地が肌をむき出している。
山脈の奥に長城がその先が北京で私たちは北京を避けて反対側の峠を
越えで張家口方面へ。
此処で高速道をおりて一般道で任丘市に入ります。
此方も田舎町で農業が盛んな土地みたいです。
今晩の夕食はロバ肉が名物と聞き街の古びた食堂で頂きました。
熱いので一口のビールが実に美味しい。
お疲れ様。
2015年7月8日
巴林左旗の朝食はヤク(羊乳)茶と日本蕎麦(ソバ)、内蒙古は蕎麦
の生産地で大半が日本に輸出されているようです。
茄子やネギに羊肉を混ぜた下地を蕎麦にかけて食べます。
蕎麦は腰が強くて美味しいが羊肉独特の匂いが!私はイマイチ。
出立前に契丹の遺跡を尋ねる。
巴林左旗(遼上京)は道路も家紋も全て契丹で統一されているよう
です。
道路の両脇に家紋が刻まれた門。
契丹像を背に
契丹は北方の騎馬民族による最初の統一王朝で建国は耶律阿保機(ヤ
リツアボキ)は部族ごとの騎馬民族の規律を定め騎馬民族国家を築い
た。契丹人は4世紀ごろから内蒙古、東部を流れるシラムレン川流域
で狩りや遊牧をして暮らしていた。
907年中国は唐が崩壊した直後の戦乱の時代に耶律阿保機はこの地の
8部族の王となり最初に築いた都、巴林(バイリン)左旗は上京と云
う名で呼ばれていた
幼少の契丹(巴林左旗(博物館)保存
契丹所有短剣(巴林左旗)遼上京
契丹には、春夏秋冬の猟場があり、夏は避暑をかねて、巴林(バイ
リン)右旗の慶州にキャンプ地かまえて後に白亜の塔を建立する。
遼上京契丹博物館
休館日を私たちの為に全ての館内(復元の研究室、技官や出土品は
1階~4階まで遺品や遺体、装飾品等)を自由(オープン)に見学さ
せて頂き初めて目にする数々遺品圧倒されました。
出土した1000年前の石棺、現在の原型がこの時代に作られていたとは
驚きです。
巴林左旗(博物館)保存
10世紀から12世紀前半にかけて広大な北アジアの草原地帯
(モンゴル草原)に栄えた「契丹」(遼王朝)。
契丹幼少の黄金像
来世も一緒にと、願う絵が聖地墓陵の遺体脇に画かれていた。
遊牧民を主体とする王朝でありながら、唐の文化を色濃く伝えるミス
テリアスな大草原の王朝です。
契丹は他にも東京、中京、南京、西京の4つの都を作り、季節、政治
情勢により政府が自由に動く騎馬民族ならでの社会を作り王宮は持ち
運びの出来るゲルを戦争中は馬車に乗せ機動性を高めて持ち得たよう
です。
発掘した当時の原型で修正は此れからのようです。(復元の技官の話)
耶律阿保機 率いる契丹は万里の長城を越え、漢民族が暮らす南の平
原へ侵入する西は中央アジア、東は朝鮮半島北部まで勢力を拡大し、
建国後わずか20年足らずで大帝国を樹立し、滅亡までの200年の間、
自身の文化を保持し宋を始め周辺諸国と交流が行なわれたようです。
遼上京遺跡的壁画
中国・内モンゴル自治区にあるトルキ山古墓から出土した皇族女性の鏡箱等の副葬品
や豪華な彩色木棺は圧巻の一言。(10世紀前半)
トルキ山古墓出土的皇族女性の遺体(頭部)頭髪
巴林左旗(上京城)的契丹出土品
契丹画(保存状態が良い)
壮大の資料の一部です。
後のチンギス・ハーン(元)が密かに世界制覇の手本にした国が「契丹」
元々契丹という国があった場所に生まれた1206年元(最繁栄期)は地球上
の1/4の陸地を支配していた。
遼上京の契丹遺品跡に感激、歴史はロマンですね。
巴林左旗を後にこれより巴林右旗にむかう
途中の料金所から幹線道路に。
自然的風景を眺めて
大板で途中下車
田舎鎮で昼食です。小豆のお粥にポーズ(饅頭)と漬物でお腹が空く
と何でも美味しい!
大板料金所
巴林右旗に入りました.
契丹第6代皇帝の妃・章聖皇太后が、夫の弔いのために建立
の塔が有名です。
契丹の狩猟場がこの巴林右旗で慶州白塔は次回の機会にお預けです。
北京は元々、契丹が築いた5つの都の一つ当時は南に位置する都、南京
と呼ばれていた
大都会の真ん中に残る契丹の仏塔:「天寧寺塔北京に残る最も古い建造
物」1120年建立の天寧寺塔は契丹(皇帝)最後の代時で外観はほぼ創建
当時のままです。
地元企業と商談も終えて今夜の宿泊地、正鑵白旗まで約380kmの工程
を走る。
克什克螣旗鑵で車を降りて小休憩。
草原に遊牧民の住居、ゲルが建ち並び一族で住み、風呂もない昔と代
わらない生活様式で暮らしているようです。
草原の先は砂漠化が進んでいる。
此処からは一般道で正鑵白旗まで草原を突っ走る
日が西に傾いた大草原を
単線の鉄道が平原を真っ直ぐに延びていた。
時刻は18時10分、日没はまだ先のようです。
このような道路を走り白旗へ向います。
冬になれば強風が砂と一緒に吹き荒れ凍て付く環境は暫し通行も止ま
るようです
栄養分の少ない草原に区割りされた土地に限度を越えた飼育数(2倍以上)
を放牧し、結果的に草が育たない、質より糧を重んじる歴史的民族は結果
を急ぐあまり生産料が上がらない。
果てしなく続く砂だらけの悪路を白旗へ
正鑵白旗(現地時間20:45)でゲルに見立てた席で晩の食事です。
2015年7月7日
内蒙古通遼市を後に自然的原野を走り途中ビジネスも含め目的地の
契丹の故郷 遼上京にむかう。
魯北南料金所をおりて腹ごしらえ(昼食)を済ませて約束時間に余裕
があり付近を見学する。
以前は草原で開放政策で造成した所に遊牧民が移り住んだ街です。
小高い丘にゲルの形の仏塔が街のシンボル的存在のようです。
素晴らしい
平地は水分の少ない作物(トウモロコシ栽培)をメーンに野菜などが
収穫できる土地柄みたいです。
一直線に果てし無く続く幹線道路
友と一緒に
私たちは中国国際結婚紹介の他に事業も手がけております。
今回は自社で開発した機械の売り込みを政府の協力を得て今回は吉林
省や内蒙古~河北省各地や天津、遼寧省等、推薦状を持参して販売店
と契約をする為に各地(3人)を訪れています。
年間降水量の少ない広大な乾燥畑に苗の作付け時から成長時の作物は
必ず水が必要です。
水圧を利用して100m先まで散水する移動式設備を考案し、関係各部署
より要請を頂き回っています。
トラクターと一緒にホースを巻いた(紅い)機械です。
トウモロコシ収穫用の機械で
次の目的地に魯北PA
見渡す限り一面の草原野
長年の緑化運動で育ち始めた苗木が道路の脇に
水源近くのトウモロコシ畑が青々と広がっている。
自然そのままの河
魯北鎮に来ると山腹などに砂漠化が進んでいるように見える。
目的地まで果てし無く続く道路を。
魯北鎮ではロバも大切な生活要具で見かけは華やかでも厳しい環境に
耐えているようです。
此方でも商談が進み納期予約も頂きこれより380km先の宿泊地に向う.
乾燥地にようやく根付いた作物が一面に。
清河子料金所を通過すると蒙古高原特有の草原と砂漠化した自然その
ままの風景の中を進む。
現在の季節は昼が暑い(風が涼しい)夜は布団を羽織って気持ちよく
眠れるが秋から冬は強風が吹き荒れ砂埃が飛び、雪で凍結した過酷な
地方のようです。
歴史的遊牧民族が暮らしてきた土地柄です。
遠くに羊の群れが、
草原を過ぎると乾燥した砂漠の原野を横断します。 風が吹けば砂嵐となり先が見えなくなり通行はできないようです。 阿魯科尓心的砂漠
太陽も西に傾いた砂漠の中を走りぬける現実的体験は一般の観光では
不可能です。
白い砂地が地平線まで続く過酷なモンゴル高原です。
荒地に放牧された馬の光景です。
子馬を連れて目前を横切った瞬間を車内から写したものです。 日本と違い大型貨物は30~50トンの荷物を積載するので事故の増大を 招いているようです。
背後の山裾に自然の墓陵があります。
今晩は契丹の故郷、巴林左旗市に宿泊です。
夕食は地元、モンゴル料理でス。
ヤク(羊の乳)お茶
羊の骨付き肉をナイフで剥ぎながら食べます。
羊特有の匂いが鼻につきます。
2015年7月6日
昨日、中国で国際結婚されたお客様をハルピン空港までお見送りした
後、吉林省長春市を経由して梨樹県に友人の結婚に気持ちばかりの祝
いを持参して立ち寄る。
田舎なれど高層ビルも建ち並び何処もかしこも中国的現実的パワーに
圧倒される。
飾りつけた車の数も都市部と同等のようです。
こんな車両で平然と営業している。
農業用(設備)関係の商談を済ませて一面のトウモロコシ畑を抜けて
次の商用地,吉林省双遼市.
双遼市を通り内蒙古に入ると砂漠化した平原に景観が一変します。
道路脇の乾燥砂地を長い年月をかけて植林に取り組んでいるようで
す。
内蒙古高原独特の青い空と涼しい風土、まさに壮大な世界です。
今晩の宿泊地、通遼市のPAゲートはモンゴル住居(ゲル)を表して
いる。