新郎新婦の結婚アルバム撮影の空き時間を利用して日本人墓地を尋ね
てみました。
終戦時満州開拓団が集団自決した歴史的悲劇がこの地、方正に多くの
日本人の方々が眠っています。
晴れてはいるが凍りつく寒さの中を車で目的地へ
開拓時代は一面の原野が続いたようです。
中日友好園林は方正県の東6km先にある吉利村から,南に2km程
行ったところに唯一の中国政府公設の「日本人墓地」が山裾の林に眠っ
ています。
(正面の林に)
林の奥にお墓があります。
日本人墓地は2基の大型コンクリート」の円柱筒状で頂点は丸い形で
中には遺骨を納めた部屋があり多くの方々が眠っています。
右は「方正地区日本人墓地」左側は麻山集団自決の「麻山日本人公墓」
です。
2014年10月21日現在のお墓の全容です。
隣に在留孤児が建てた「中国養父母公墓」、があります。
裏側に氏名記載さています。
近くに戦後、現地の稲作指導に訪れて米の収穫量の増産に尽くし現地の
方々より神の様に尊敬された岩手県沢内村出身の藤原長作の「記念碑」
と記念館もある。
右側の建屋(お墓の裏側より撮影)
尖閣湾問題で北京より4人の反日運動家により正面の犠牲者が刻まれ
ている碑に紅いペンキで塗り潰された事件で現在の碑は取り除かれて
いる。
陵墓の奥中央に白い石碑は現在(撤去)ありません。
以前の姿です。(現在の写真ではありません)
砲台山に1945年(昭和20年)の冬、日本人の遺体がこの丘に山積みの
まま放置されていたようです。
秋に集団自決した日本人開拓団の悲劇です。
砲台山
ソ連の侵攻により満州開拓団が非難の為ハルビン西方約180キロ(ジ
ャムスとハルビンの中間)の方正(ほうせい)まで辿り着きハルビン
を前にして、寒さと飢え、病気等で約5000人が犠牲になり、3日3晩
死体を焼き砲台山の麓に埋めたと伝えられています。
砲台山の裾野に眠てる。
日本人公墓が作られるきっかけは1963年に荒れ地を開拓している最中
に風雨にさらされ野ざらしになった白骨の山を残留婦人の松田ちゑさ
ん(91年帰国)が見つけ「埋葬したい」と地元政府に願い出た話が中
央政府まで届き、周恩来首相の承認を受け地元の方正県政府が建立。
当時、日中国交回復前の中国は貧困時代で日本人の墓を建立する為、
ハルビンで石を採集し、道路もない所を松花江の増水を待ち、方正ま
で船で運び、丘の上に引き上げ、多くの生命が失われた地に建立した
そうです。
現在も当時の家屋(築、約90年前)で生活している農民。
砲台山の麓(戦前築)農家
1945年8月15日に日本が敗戦、直前の8月9日、旧ソ連は満州国境を越え
参戦した。
方正をはじめ、北部満洲各地は日本人開拓団の悲劇が繰り広げられ、
ある村はソ連の奇襲で全滅し、又、ある村は集団自決が行われ、多く
の開拓団は終戦も知らされず、成人男性は出兵し不在のまま、老人や
婦女子を中心にソ連軍からの逃れてこの地に辿り着くが大河(松花江)
に行く手を阻まれて多くの人が激流に飲み込まれ犠牲者が続出したそ
うです。
小石を投げても割れない氷
方正は中日友好园林のある「吉興村に方正地区開拓団」の本部があり
松花江添いの伊漢通郷など方正県各地に開拓団があったほか、佳木斯
チャムスや樺川・樺南・七台河など北部満洲の各地から哈爾浜に向か
う交通の要衝で終戦時の開拓団引き上げの地で日本人孤児(残留日本
人孤児)が多く残され地域で、せめて子供の命だけは守りたい願いが
多くの中国人が親代わりとなって引き取ってくれたようです。
多くの日本人孤児は乳幼児で物心の付く前から中国人として育てられ
た人が殆どで、終戦の混乱から青年期以降の多くの方々も残留婦人と
してこの地で暮し、勤勉に働き、誠実で現地の人々からは好意的に思
われていたようです。
日本人残留孤児の問題については,このような背景があることも忘れ
てはならないと思います。
残留孤児を育ててくれた(養父母の墓)
冷戦下の中国方正県の人々への農業育成や技術伝授による日本人への
感謝が,このような形で実現されたと思っております。
その後,周恩来宰相と田中角栄首相により,日中国交回復が開かれ現
在に至ります。
戦争とは,人の幸せを奪い悲劇をもたらす歴史的事実を中日友好園林
(日本人墓地)が現代に伝えています。
中国政府に日本人の遺体埋葬を願い出たこと,これに見事答えて公費で
お墓の建立に尽くして戴いた方正県の地方官及び中央政府の毛沢東主席
と周恩来宰相。
中日友好園林(日本人墓地)に眠る英霊,霊魂に感謝を表し,静かな
永眠を心から祈ります。
合唱